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本郷キャンパス歴史小話 富士信仰の聖地と戊辰戦争の戦場
DAMチャンネルをご覧の皆様こんにちは、代々木上原亜衣です。この度東京大学航空宇宙工学科/専攻 Advent Calendar 2020 - Adventarの記事をリリースさせていただくことになりました。
昨年は航空にこじつけてオウム真理教のヘリの話を書きましたが、今年は何を書きましょうか。そういえば今年は航空学科設立100周年の記念すべき年です。一次中断された時期もありますが、めでたい話です。
航空宇宙工学科百年史を書こうかとも思いましたが、たぶん放っておいても他の人なり団体なりが勝手に書くでしょう。今回は「歴史」をテーマにして、本郷キャンパスに東大が成立する以前の歴史を紹介……しようと思ったのですが、APEXとYouTubeで忙しかったので詳細な通史を書けるほど資料を集める時間がありませんでした。
そのため、本記事は本郷キャンパスにまつわる歴史小話を二本立てでお送りします。
一つ目は安土桃山から昭和にかけて医学部二号館前に存在していた富士信仰の聖地、椿山についてです。椿山は、最古級の富士講組織を有する駒込富士神社の起源とされる信仰の場でした。
二つ目は戊辰戦争において旧幕府勢力を江戸から一掃した戦い、上野戦争の戦場としての本郷キャンパスについてです。現在の上野公園が主戦場となった上野戦争では、不忍池を挟んで反対側の高台に位置する本郷キャンパスが砲台陣地として使用されました。
序章 通史
個々のこぼれ話を見ていく前に、まず本郷キャンパスが東大の敷地になるまでの大まかな歴史の流れを通して見ていきましょう。
縄文
縄文海進(縄文時代に起きた気候の温暖化による海面上昇)に伴い、今の根津・不忍池方面と春日・水道橋方面は海に沈み、本郷台地は半島になったと考えられています。浅野キャンパスから貝塚が出土しており、ここが海岸に近い集落であったことを裏付けています。
弥生
縄文海進が終わり海が引くと、根津方面は稲作に適した沖積地となりました。現在の本郷キャンパス一帯には農村が成立しました。
この時期使われていた薄型土器が1884年に弥生で初めて発見され、発見地から「弥生式土器」と命名されました。さらに、この土器を使っていた時代も「弥生時代」と呼ぶようになりました。(なお、発見地は弥生一丁目の弥生キャンパスではなく弥生二丁目の浅野キャンパスです)
古墳
本郷キャンパス内に椿山古墳が存在するとされていますが、本当に古墳かどうかは疑問視されています。ここは後程深く触れていきたいと思います。
中世
平安中期の文書・倭名類聚抄に「豊島郡湯島郷」なる集落の存在が記録されています。
この湯島郷の中心地が湯島本郷と呼ばれるようになり、室町~戦国の間に湯島が取れてただの本郷になったと考えられています。その後、湯島と本郷は別々の集落として発展し、現在に至ります。
また、源義経の家来の一人・片岡八郎が弥生で没したという伝説があり、彼を祀る神社が今の農学部一号館北東端あたりに存在していました。
江戸
江戸時代に入ると、本郷キャンパス一帯は大名の屋敷地として利用されました。参勤交代の際に大名が滞在し、藩政などを取り仕切る場所として使われました。
本郷キャンパスは前田家の拝領地となり、加賀藩・富山藩・大聖寺藩(すべて前田家)の屋敷が構えられました。いまや東大のシンボルとして有名な赤門は、加賀藩上屋敷の遺構です。あと調べている途中分かったんですが、2Aの金曜日に監禁されていた工8地下のあの教室と加賀藩の牢屋のあった場所がだいたい一致してて笑いました。
明治以降
明治四年、加賀とその支藩の広大な屋敷地は文部省に接収され、跡地には東京医学校が移転しました。その後明治10年東京開成学校と合併、東京大学が創設されました。
大正末に本郷南東の前田侯爵家と駒場の土地を交換、昭和初期に弥生の一高と駒場の農学部敷地を交換、戦後に浅野侯爵家の土地を購入し、現在の本郷(地区)キャンパスの領域がだいたい完成しました。
関東大震災や太平洋戦争で罹災しつつ、戦間期や高度成長期には施設を拡張し、現在の姿に至ります。
第一章 富士信仰の聖地・本郷キャンパス
住居表示実施前、本郷キャンパスの住所は「本郷7丁目3-1」ではなく「本富士町1」でした。
この本富士というのは「もともと富士権現があったところ」の意です。本富士町の富士権現は江戸の初期に駒込に移され、現在も駒込富士神社として祀られています。
実は、この富士権現の祀られていた丘が1964年まで現在の赤門総合研究棟のあたりに残っていました。これは椿山あるいは富士山と呼ばれていた丘で、先述の椿山古墳と同一のものです。富士山と書くと3776メートルのガチ富士と紛らわしいので、本稿では特に何もない限り椿山で呼称を統一します。
この章では、椿山の歴史を辿ります。
1-1 富士信仰とは何か
まず富士信仰について軽く説明します。
1-1-1 富士信仰・浅間信仰
まあ読んで字のごとくなんですが、富士信仰とは富士の山神を信仰することを指します。山岳信仰の一種ですね。
富士信仰の一つである浅間信仰の場合、富士の山神は浅間大神といい、日本神話のコノハナサクヤヒメと同一視されています。各地に存在する浅間神社はこの浅間大神を祀る富士信仰の神社です。駒込富士神社もこの系統です。
富士山山開きの日である旧暦六月朔日には縁日が開かれます。
1-1-2 富士講
講とは仲間内で費用をためて代表者に遠隔地への参拝をさせる共同体のことで、富士講以外にも香川の金刀比羅宮に参拝する金毘羅講などが存在していました。富士講における参拝とはもちろん富士登山を指します。
富士講は江戸時代に大いに流行し、全盛期には「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講、江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人」とうたわれました。
明治以降(特に戦後)、富士登山がレジャー化するに伴って富士講は衰退し、現在は十数講を残すのみとなっています。
1-1-3 富士塚
富士信仰の特筆すべき風習に「富士塚」があります。小さな山を築いて頂上に祠を建て、富士山の代わりとして崇拝する風習です。
人工の山だけでなく、自然にできた丘や古墳を利用することもありました。多くの場合、富士塚の頂上からはガチ富士が見えるようになっていました。
本郷の例では、椿山が富士塚として扱われたと捉えることができるでしょう。
東大の近辺では、同じ山岳信仰の社でもある白山神社で現存する富士塚を見ることができます。
1-1-4 余談
特に富士信仰とは関わりのない宗教もなぜか富士山麓に引き寄せられがちです。
古くは日蓮宗の大石寺が建てられました。大石寺への会員参拝の便宜をはかるため、創価学会が新富士駅の設置の際に多額の寄付をしたという逸話があります。
最近ではオウム真理教のサティアンや法の華三法行の本部が存在していました。
1-2 本郷富士権現の起源
本郷に富士権現が祀られ始めたのはいつからなのでしょうか。
古文書を見ていきましょう。
武蔵国の地誌・新編武蔵風土記稿(1810~1830)では、駒込富士神社の項に以下のことが書かれています。
寛文(1661~1673)の頃記せる縁起に、天正元年(1573)五月木村万右衛門牛久保隼人と云民、浅間の霊夢によりて本郷のうちにありし古塚より行基手刻の牛王板及び剣一振幣帛等を得たり。故に其所に一社を造立し富士浅間を勧請す。~
天正元年(1573)に富士権現が祀られたこと、椿山はその時点で「古塚」であったことが読み取れます。
寛文期の他の記録も見てみます。寛文2年(1662年)の「江戸名所記」は、駒込富士神社の項で次のように述べています。
駒込村富士社、このやしろは百年ばかりそのかみは本郷にあり、かの所にちいさき山あり、山の上に大なる木あり、その木のもとに六月朔日大雪ふりつもる。~~木のもとに小社をつくり時ならぬ大雪のふりける故を以て、富士権現をくわんじゃう申しけり。
1662年から見た1573年は「百年ばかりそのかみ」と言えましょう。由来が霊夢か雪かの差はありますが、本郷富士権現の始まりは1573年と結論付けられそうです。
いや、少し待った。文政8年(1825)に滝沢馬琴らが記した「兎園小説」では異説が述べられています。
江戸本郷加州御屋敷氷室の場所は、慶長八年(1603)六月朔日雪ふりける所也。其雪富士の形につもりたるゆゑに、其所へ浅間の宮を造立し、毎年六月朔日まつりをなす。
六月朔日(富士山山開きの日)の雪の縁起こそ「江戸名所記」と共通していますが、その日付は1603年としており、新編武蔵風土記稿の1573年と一致していません。
1573年説と1603年説、どちらが正しいのでしょうか。
椿山を記した最古の記録である慶長見聞集(1615)を見てみましょう。1603年からわずか12年しか経っておらず、年号すら変わっていません。もし1603年説が正しいのであれば、詳細な縁起が書かれているはずです。
神田山のきん所本郷といふ在所に、昔より小塚の上にほこら一つありて、富士浅間立せ給ふといへども、~
1615年からみて「昔より」とのことですので、1573年説が有力と言えるでしょう。
また「兎園小説」は、兎園会という、文人が珍談奇談を披露する会で出た話を記録したものです。人志松本のすべらない話の書き起こしみたいなもんです。正式な歴史書である風土記稿などと比べると、その信憑性には少し疑問が残ります。
富士塚を新たに造成したという話は全てにおいて無かったので、椿山は16世紀以前に作られたか、あるいは自然地形であることが分かります。
1-3 江戸期の信仰
本郷富士権現は建立よりしばらく本郷の民衆の信仰を集めていました。
元和二、三年(1616~17)、現在の本郷キャンパスは前田家の拝領地となります。その中に椿山も含まれていました。
大名の土地になった後もしばらくは信者が出入りしていましたが、警備上よろしくなかったらしく、寛永六年(1629)駒込へ遷座しました。
その後少なくとも17世紀後半までは、六月一日の例祭のときのみ本郷の富士社跡地が民衆に開かれるようになりました。現在でも、旧暦六月一日にあたる七月一日は駒込富士神社で祭りが催されています。
このころ椿山はもっぱら富士山と呼ばれており、江戸期の加賀藩資料にも富士山として記載されています。19世紀前半ごろに加賀藩上屋敷を描いた絵図を見てみると、「富士山」「富士権現旧地」として赤門横の椿山が描かれています。
余談ですが、「一富士二鷹三茄子」の一富士とは駒込富士神社のことだと言われています。その駒込富士神社は390年前まで本郷にあったわけですから、初夢で本郷の夢を見た場合は「一富士」カウントになるかもしれません。知らんけど。
1-4 信仰の衰退
明治四年(1871)、加賀藩敷地は文部省用地となります。その中に椿山も含まれていました。明治五年(1872)には、先述の通り駒込富士神社の旧地であることから一帯に「本富士町」の名が付きます。
このころの加賀藩屋敷地は安政の大地震と明治元年の火災で荒廃していました。管理者であった前田家の手を離れた上、富士講の衰退が始まったことも相まっているのか、椿山は従来の「富士山」の名では呼ばれなくなり、「椿山」として知られていきます。
東大が成立した頃には既に「椿山」の名称が一般的となっていたようです。
一方、富士権現への信仰が完全に消失したわけではありませんでした。
現在の本郷キャンパス南西部は前田侯爵家の土地となりましたが、これはちょうど椿山の南隣に当たります。五千分一東京図を見ると、椿山から塀一つ隔てた南に小さな建物があるのが見えます。これは椿山の富士を祀るために前田家が建立した祠なのです。
1-5 古墳?
東京大学の発展(とそれに伴う考古学の発展)によって、「椿山は古墳なのではないか」という疑惑がかかります。
1885年、椿山の発掘調査が行われました。この前年に弥生土器の発見を成し遂げた有坂鉊蔵や坪井正五郎らのエースが主導する発掘調査で、大いに期待されていました。
しかし予想を裏切り、出土したのは富士権現関連の切り石が二、三個ほどのみで、古墳時代のものは何も出土しませんでした。のちに有坂は「つひこゝからは何も出ませんでした」と当時を回想しています。
物証が無いにも関わらず、その後も椿山は古墳と見なされました。実は冒頭で紹介した椿山の写真は、本郷區史(1937)内で「本富士町帝国大学構内古墳」として紹介されていたものです。
椿山古墳は現在でも文京区の遺跡として登録されています。しかし先述の通り既に工事で破壊されて現存しない上、なんと地図上で誤った位置に登録されています。このため、2008年の学術交流研究棟建設の際、文化財保護法に基づき不必要な発掘調査をせざるを得ない事態が発生しました。文の京のくせに文化財保護ガバガバじゃねえか
1-6 椿山の消滅
明治以来本郷キャンパスの憩いの地(だったかは知らんけど)として親しまれてきた椿山にも、1960年代のキャンパス拡張期、ついに開発の手が入ります。
1964年椿山は破壊され、1965年跡地に赤門総合研究棟が建設されます。同年住居表示が実施され、本郷富士権現を由来とする町名である本富士町は本郷七丁目に改められました。
2020年現在、キャンパス内に椿山の痕跡を見ることができるものは存在しません。
1-7 まとめ
いかがでしたか?(決まり文句)
1573年富士権現が勧請され聖地として崇められた富士山は、江戸期に繁盛したものの、明治にはその信仰を失って椿山と名を変え、1965年前後にはその本体である椿山と名を残した「本富士町」の双方を失い、歴史から消えました。
現在では椿山の面影を見ることはかないませんが、実は龍岡門の西側に小さな富士社が残っているのを見ることができます。この社は1-4節で紹介した前田家の祠が元となっており、大正の土地交換で前田家が駒場へ越した際に地元町内会に託されたものです。
富士信仰華やかなりし頃を思い浮かべながら本郷を歩くと、慣れた道もまた違って見えてくるかもしれません。
第二章 戊辰戦争の戦場・本郷キャンパス
明治時代の始まる四か月前、上野広小路、千駄木、上野公園は火に包まれました。戊辰戦争の重大局面の一つ、上野戦争です。
上野戦争とは、現在の上野公園に立てこもった旧幕府軍を駆逐し、江戸から佐幕勢力を掃討することを目的に新政府軍が仕掛けた戦闘です。
上野の近くに幕府軍を砲撃するのに適した高台が存在していました。これこそ、不忍池を挟んだ反対側に位置する前田家屋敷地、後の本郷キャンパスです。
2-1 背景
日本史で詳しくやったと思うので詳しくは省きますが、1868年、日本は新政府軍と旧幕府軍の二つに分かれ久方ぶりの内戦状態に陥ります(戊辰戦争)。
旧幕府軍は緒戦の鳥羽・伏見の戦いに敗北。当時大坂城にいた徳川慶喜は江戸に逃亡し、寛永寺(現在の上野公園)で謹慎します。このとき、慶喜の警護などを目的とした旧幕府側武装集団「彰義隊」が結成され、寛永寺を拠点とします。
江戸城無血開城により慶喜が水戸へと移動した後も、彰義隊は徳川家位牌の警護を理由に寛永寺に留まり続け、新政府軍兵士の殺害など敵対的態度を取りました。新政府は懐柔を試みましたが、ついに彰義隊の討伐を決定しました。
2-2 大村益次郎の作戦
この作戦を指揮したのは長州の大村益次郎というめちゃくちゃデコのでかい軍師です。この節では彼の立てた作戦を紹介します。
敵の立てこもる場所は上野の山の寛永寺です。上野公園に行ったことのある方はわかるかと思いますが、寛永寺は現在の上野駅東口側と不忍池に挟まれた半島状の高台に位置しています。
さらに徳川家の菩提寺である寛永寺には歴代将軍の墓があり、それらを守護するために比較的強固な防衛設備が存在していました。
もう一つ付け加えるならば、当時の不忍池には流入する藍染川(ほぼ現在の文京・台東区境に相当)と、流出する忍川が寛永寺を取り囲むように流れていました。
つまり、寛永寺は要塞として機能していたのです。
これを殲滅するために、大村はまず交通を遮断しました。水道橋・和泉橋・昌平橋で神田川を、両国橋・吾妻橋・千住大橋で隅田川を封鎖。さらに陸路では、本郷追分(現在の農学部正門前。追分寮の名前の由来でもある)で中山道と岩槻街道を同時に封鎖しました。
実働部隊の戦線は大きく分けて二つ。主戦線が大手門にあたる黒門(現在の京成上野駅)前で、主に薩摩藩が担当していました。参謀はあの西郷隆盛です。
もう一つが団子坂~藍染川~谷中門(現在の千駄木駅~東京芸大付近)で、長州藩がメインの部隊でした。こちらは最新鋭兵器のスナイドル銃を装備していました。
これに加え、前田家屋敷地(現在の本郷キャンパス)に佐賀藩の砲兵、水戸藩駒込邸(現在の弥生キャンパス)に岡山藩・津藩の砲兵を配備しました。現在の東大病院のあたりには佐賀の虎の子の最新大砲・アームストロング砲が配備されていました。
地図を見ていただけると、北東側の鶯谷方面に兵が割かれていないことがわかるかと思います。大村はあえて彰義隊を完全には包囲せず退路を残しました。彰義隊が猫嚙む窮鼠と化すことを避けたのではないかと思われます。
2-3 午前:戦局の膠着
1868年5月15日未明、政府軍が寛永寺への進軍を開始します。
午前七時ごろ、黒門前戦線では忍川を挟んで両軍が激突。戦端が開かれます。
忍川を越すことには成功しましたが、新政府軍は山王台からの砲撃に晒され、上野広小路あたりで一進一退の苦戦を強いられます。
その頃、谷中門戦線では藍染川を挟んで銃撃戦が発生。長州藩軍は最新式のスナイドル銃で対抗を試みますが、最新すぎて操作方法が分からず撃てないという事態に陥りました。いやそんなことある???旧式銃を持つ他藩軍に戦線を任せ、長州軍は一時離脱します。
一方本郷の砲台陣地では、着弾点の調整に手間取って寛永寺境内まで砲撃を届かせることができず、せっかくのアームストロング砲弾もすべて不忍池に吸われてしまいました。
2-4 正午:真価を発揮する二つの新兵器
正午ごろ、ついに本郷からの砲撃が不忍池を越えて上野山中に着弾します。
中堂(東博前噴水のあたり)などが炎上し、彰義隊の一部部隊が脱走。山王台の旧幕府軍砲台陣地も被弾し、新政府軍の奇襲により占拠されました。
高所からの彰義隊の砲撃が止んだため戦況は好転し、午後二時ごろ新政府軍は黒門を突破し寛永寺内になだれ込みます。
一方で谷中門戦線を離脱した長州軍が向かったのは加賀藩邸育徳院心字池、現在の三四郎池でした。ここにはスナイドル銃の扱いに慣れた新政府軍参謀が控えており、長州軍は銃の指南を受けます。
スナイドル銃を使いこなせるようになった長州軍の活躍により、新政府軍は藍染川を越え、一気に谷中門へ駆けあがりました。谷中門周辺には現在も古い寺が多く残っており、この時の弾痕を見ることができます。
二つの戦線で戦果を挙げた二つの新兵器には、偶然にも後の本郷キャンパスが関わっていたのでした。
余談:上野の西郷隆盛像
上野公園に犬を連れた西郷隆盛の銅像が建っているのは周知のとおりです。
西郷像の位置は、上野戦争において彰義隊の砲台陣地に使われ、激選の末に西郷の薩摩軍が勝ち取った山王台にあたります。さらに西郷像の背後には彰義隊隊士の墓が鎮座しています。
2-5 午後:終結
黒門突破後、新政府軍は敵を各個撃破しつつ建物を放火し、本坊陥落後は掃討戦に移りました。防衛線を突破された彰義隊にもはや勝ち目はなく、午後五時ごろ戦闘は終結しました。
彰義隊残存兵は大村があえて開けた鶯谷方面の穴から抜けましたが、あらかじめ交通の要所を抑えていた新政府軍に捕縛されました。
上野戦争の勝利によって江戸以西は新政府軍の手中に収まりました。江戸が東京に改称されたのはこの二か月後、明治が始まったのは四か月後のことでした。
2-6 まとめ
なんか本郷キャンパスというより上野公園に主軸を置いちゃってますねこの章。
江戸城開城後も上野に立てこもっていた佐幕過激派テロ組織彰義隊を殲滅する戦いにおいて、本郷キャンパスは砲台および指令所として新政府軍の勝利に欠かせない陣地の役割を果たしました。
不忍池を眺めながら「ここにはアームストロング砲の弾が沈んでるかも」と思いを馳せてみたり、千駄木のミスドの窓から藍染川に突っ込む長州軍の姿を思い浮かべてみたりして楽しんでみるといいんじゃないかと思います。今朝そうしてきました。
参考文献
[1]本郷區史, 1937
[2]東京大学百年史, 1977
[3]史跡とならずに消えた名所―本郷の富士山, 松田陽, 2016
[4]新編武蔵風土記稿 巻之十九, 1810~1830
[5]経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告, 東京大学埋蔵文化財調査室, 2008
[6]戊辰戦争 (11・上野戦争), ring ripple, 2020
[7]図説・幕末 戊辰/西南戦争, 2006
その他いろいろあるけどメモって無かったので忘れました。研究者としてあるまじき怠慢
切り取り線ストーリーはどのくらいの位置で読み飛ばされるのか
こんにち宮おは仁、こんばんは代々木上原亜衣です。
切り取り線ストーリー
Instagramのストーリー機能、現代人なら使ったことありますよね。
Instagramをインストールしていない?あなたは現代人ではありません。原始人です。原始人はiPod Touch(五世代)にパズドラとチャリ走を入れて遊んでいたと山川日本史に記述があります。
ストーリー上では、その長さを示す再生バーが画面上部に表示されます。二個投稿すると再生バーの長さが1/2になり(もちろん動画の長さは変わりませんが)、三個投稿すると1/3に、四個投稿すると1/4に……やがて再生バーは細切れになり、切り取り線のような点線を形成します。
これこそ、「切り取り線ストーリー」と上原が呼んでいるものです。
Instagramユーザーならば、誰しも一度は切り取り線ストーリーを目にしたことがあるかと思います。飲み会や行楽等でテンションがあがり、ついつい切り取り線を作ってしまったことのある方もいるでしょう。
画面上部にたたずむ切り取り線は地味なれど確固たる存在感を放ちます。
しかし、大学生のストーリーは非常につまらない。スキマ時間を潰さんと惰性で眺めるも、本当につまらない。エンタの神様で芋洗坂係長が出てくる前後の時間帯ぐらいつまらない。女子大生による「濃いメンツ」の飲み会のストーリーを延々と見せ続ける拷問が中世ヨーロッパに存在していたと山川世界史に記述があります。
ゆえに、私は切り取り線ストーリーに直面した時、3、4ストーリーほどを見て他の人の投稿に移ってしまうことがほとんどです。
ここで一つの疑問が生じました。
「みんなどのタイミングで切り取り線ストーリーを読み飛ばしているの?」
実験1
切り取り線ストーリー閲覧者の行動を調べるため、以下の手順で実験を行いました。
- 単一の画像を上原のストーリーに連投する(ストーリーの内容による影響を排除するため)
- 24時間後、各ストーリーの閲覧者数を記録する
今回使用した画像は顕正新聞の見出し「日蓮大聖人の仏法」です。破邪顕正!
連投数は28、連投時刻は2020/7/1水曜日のAM2時頃です。
↑1投稿30題目くらいのレートで功徳に換算してほしいですね
結果・考察1
以下に、ストーリー番号(そのストーリーが何個目に表示されるか)と閲覧者数の関係を示しています。
ストーリーの仕様上グラフは単調減少となるはずですが、実際のデータは異なります。
実は「日蓮大聖人の仏法」を連投する際、いくつかの「日蓮大聖人の仏法」が送信エラーを起こしてしまったため再送しなければなりませんでした。再送するまでのわずかなあいだに2,3人ほどが通しで閲覧したことが原因で、閲覧数に「中抜け」が生じてしまったと推測されます。
ストーリー番号1~12では閲覧者数はおおむね線形に減少しており、それ以降は緩やかな減少が見られるもののほぼ不変となっています。
グラフの傾きが急激に減少するストーリー番号を、閲覧者が厳選されるという意味を込め、大まかに「厳選点」と命名します。実験1での厳選点は12前後であることが読み取れます。
あるストーリー番号の閲覧者数をストーリー番号1の閲覧者数で割ったものを「残留率」と定義します。厳選点での残留率は78.6%、最終的な残留率は76.2%でした。
実験2
実験1では「厳選点はストーリー番号12付近に存在する」という結果が出ました。
しかし、厳選点の場所がストーリー番号の絶対的位置に依存するのか、全ストーリー中の相対的位置に依存するのかは不明です。
実験2では、実験1と同手順の実験を連投数を最大(100)まで増加させて行いました。
もし厳選点が相対位置に依存するならば、厳選点は40前後に現れ、厳選点残留率と最終残留率の差は実験1と変わりないはずです。
使用した画像は変わらず顕正新聞の見出し「日蓮大聖人の仏法」です。
連投数は100、連投時刻は2020/7/2木曜日のAM3時半頃です。
結果・考察2
以下にストーリー番号―閲覧者数の関係を示します。
ストーリー番号15あたりが厳選点と見なせます。実験1における厳選点12と大きな変わりはありませんでした。
厳選点残留率は70.1%、最終残留率は58.4%でした。連投数が大きくなるほど、厳選点残留率と最終残留率の差が大きくなる傾向があるようです。
以上より、厳選点の場所はストーリー番号の絶対的位置に依存することがわかりました。
実験2は実験1の翌日に実施しました。フォロワーに愛想を尽かされた影響で、厳選点残留率が減少したり、厳選点の位置が本来よりも前に移動した可能性があります。
結論
- 切り取り線ストーリーは、連投数に関わらず、おおむね12~15個め(厳選点)までに二、三割の人が読み飛ばす。
- 厳選点までストーリーを読んだ人のほとんどは最後までストーリーを読む。
- ただし、厳選点を超えても読み飛ばす人が一定の割合で発生するため、連投数が多ければ多いほど最後まで読む人の割合は小さくなる。
- 異なる画像・異なるフォロワー層で閲覧者数の傾向にどのような違いが生じるかは今後の課題である。
いかがでしたか?
切り取り線を切り取りきる優しいInstagramerが多いことに、正直驚愕しています。
Twitterではやたらとインスタ・グラマーを敵視する気持ち悪いオタク陰キャアニメアイコンチーズ牛丼(休み時間は一人でラノベを読んでいる)が散見されますが、Instagramはやさしさに溢れた場所です。
日常のささやかな楽しみ、驚き、発見、思索、そういった感動とか感情とかを仲間内で分け合う、現代インターネットに現れたオアシスのようなSNS……それがInstagramなのです。
悪意の増幅装置と化したTwitter、ユーザー層高齢化&個人情報モロ感のFacebook、廃墟のmixi、習近平のTikTok……SNSに疲れたら、Instagramに来てみてはいかがでしょうか。
DMにはセフレを募集する外人のサクラが、フォロリクにはMARCHを中退して起業した設定の商材屋が、検索には謝る気ゼロのドルチェ&ガッバーナが、そしてストーリーでは飲んでないゆかりが、あなたを心待ちにしています。
台所にうじ虫が沸いた話
「ホアーッッッ!!!!」
半裸青年男性の素っ頓狂な叫び声が、フライパンからこぼれ落ちた野菜くずの散らばるキッチンにこだました。無数の白いうねうねがスポンジ置き場で舞踏会を開いていた。午前四時半のことであった。
上原家のキッチンは汚かった。数か月掃除らしい掃除をした覚えなどなく、シンクにはヘドロが張り付き、コバエが見えるだけで少なくとも三匹は常駐するワンダーランドであった。少し前に黒くて速いアレが沸いたのでヘドロは一掃したものの、コバエは未だ健在で、三角コーナーのあたりをコソコソと右往左往していた。
それだけならば耐えられた。Blackなアイツは道民の上原にはさほどMatterではなかったし、なにより上原の衛生観念というものはガバのガーバァであった。しかし、台所で狂喜乱舞するWhiteな連中には、さすがの上原も戦慄せざるを得なかった。
ここにきてようやく、上原は掃除的正しさを行使しなければならないと決心した。
文字通り夜の街に繰り出した上原は、洗剤とゴム手袋、スポンジを購入して帰宅した。帰宅してもなお、クラブハウスさながらの連中は濃厚接触を続けていた。
コンロ周辺、蛇口回り、壁。いつ落ちたのか見当もつかぬ玉ねぎの破片、不明な黒い物体、なんかぬめってるやつ……どこにUZIを構えた伏兵が潜んでいるのかわからない恐怖。
一か所ずつ丁寧に汚れをこそぎ取り、最後にスポンジでクラスターを一網打尽。そのままGoToゴミ袋、即ゴミ出し。オーバーシュートは回避された。
キッチンは元の銀色の輝きを取り戻した。これにて一件落着……いや、本当にそうだろうか? キッチン同様、何か月も手を付けていない領域は上原家にたくさんある。ベッドの下、トイレの裏、テレビ台の横……少し前に見たハサミムシはどこから沸いた?最近チョウバエをよく見かける気がするぞ。いつの間にか蚊が入ってきたことがあったのはなぜだ?
ここで上原は思考を停止した。少なくとも、考えることをやめているうちは精神に安寧が訪れるのだ。そもそも、これまで認知していなくてもうまくいっていたものを、わざわざ認知する必要があるのだろうか。かくして上原はADHD的発想にて問題を未来に発送したのち、インターネットの海に沈んでいった。
虫の出所は誰も知らない。
「松のヤー」
松のヤー
「とんかつ 松のや」をご存じだろうか。
インターネットのオタクが持ち上げがちなことで知られる牛丼チェーン「松屋」で有名な松屋フーズが経営するとんかつ屋である。550円というお手頃価格からとんかつ定食を堪能できる優良チェーンだ。
しかし、松のやの真の価値はそこではない。
なんとこの店、味噌汁とご飯がおかわり無料なのである。たったの550円で、だ。コストパフォーマンスに衣を絡めて揚げたような店なのである。
当然、カロリー/円を可能な限り最大化するためにコっスい食べ方をする客が一定数出てくる。
おかわりの米を漫画みてえな盛り方する奴、カツ一切れを1/6ぐらいずつかじっては茶碗1/4ほどの白米を掻き込み続ける奴……私は彼らを内心で「松のヤー」と名付けている。
何を隠そうこの私も松のヤーである。ちなみに上に挙げた例は両方とも自分の実体験に基づく。
特に二月はpaypayの40%還元キャンペーンがあったおかげで、先述のロースカツ定食は実質330円で食することができた。
これは、750円のデヴラーメン、650円で飯おかわりし放題の家系、540円で大盛無料の天丼で構成された上原クソデヴコスパ飯の環境大破壊に他ならなかった。よくもそんなことを、と胃袋の中のグレタがおかわり味噌汁にワカメを植林しながら激怒していた。
邂逅
さて、事が起こったのは二月の下旬であった。
松のやに入店し食券を発行すると、店内はすでに混雑の様相を呈しつつあった。カウンター席はどこに座っても隣に先客がおり、それぞれ神妙な面持ちでカツを待っているか、喉に白米を流し込んでいるか、という状況だった。
そんな中、一人だけ既にカツを平らげたOLが端に座っているのを見つけた。
(この人はじきに退店してくれそうだな)
と、そのOLの隣に陣取ることにした。
しかしここで一つの違和感に気づく。OLの茶碗には、およそ食後とは思えない量の白米が聳えていたからであった。
同族意識
この米の山は残飯か?いや、それにしては形が整いすぎている気が……少し気になりつつも、いつも通りカツ:米=1:8ぐらいの比率でコスコス食い進めていると、いつの間にかOLの盆には納豆が乗っかっていた。
ははあ、食後に納豆で〆ようと、そういう算段なわけだな。松のやは味噌汁も自由に飲めるから、口の中が気持ち悪いまま街に繰り出すこともない。
しかし、追加注文というややパワー系なプレイングとはいえ、こいつも「松のヤー」だな……
一方的な同族意識を片隅に抱きつつも、その時はまだ自分の食事に集中していた。むしろ、同族が隣にいてくれたおかげで、いつも以上にコっスい食べ方をすることに抵抗がなくなっていった。
カツを半分食い終わったところで事件は起きた。
ホンモノ
OLがおもむろに立ち上がった。米か味噌汁の補充だろう、と大して気にも留めなかったのだが、数瞬の後に視界の隅に映り込んだモノに目を疑った。
OLが持ち帰ったモノ、それは。
こいつ……!!
ヒレカツを追加注文しやがった……!!!
脳髄が揺れた。
松のヤー界においてカツの追加は常識外である。いかにコストを抑えた上で株式会社松屋フーズから炭水化物と水分を搾り取れるか、それが我々松のヤーの至上命題だったはずだ。
しかしこの女。白米と味噌汁の小手先だけのテクニックで胃袋を満たしてきた我々の固定観念を、ヒレカツというカロリーの破城槌で揺るがし、砕き、完膚なきまで打ち破ったのだ。脂肪・タンパク質こそが中核であるということに、とんかつ店に通いながら気づかなかった我々を、行動をもって啓蒙したのである。
この時点で既に原産地不明の敗北感が思考の流通経路に回り始めていたのだが、ここでヤツはさらに斜め上に躍り出た。
先ほど食べ終わったとんかつの網をおもむろにつかみ上げたかと思うと、その反対の手で箸を持ち……
網にへばりついた衣のカスを新しいカツに振りかけている……!!!
コっっっっっっっっっっっっっっス!!!!!!!!!
いくら松のヤーといえども、ここまでコスい食い方をしている奴は初めて見た。
カツ追加注文という禁じ手を使っておきながらも、松のヤーらしいコスさは失わない、いや、むしろ並みの松のヤーなど屁にも突っ張りにもならぬコスさを兼ね備えている。松屋フーズの神に二物を与えられし者が、今自分の左隣にいる。
もはやこの時点で敗北感は確固たる実体をもって感情を回遊しつつあった。
今自分にできることは、カツをいつも以上にチビチビ食って「ヤツ」より完食の時間を延ばし、せめてものコスさを証明することだけ。
自分にわずかに残った「ヤツ」への勝算。これしかない。
松のヤーとしての矜持をかけたラストバトルが始まった。
「松のヤー」
果たして、決着はついた。
半切れのロースカツを残したところで、ヒレカツはすべて「ヤツ」の胃袋へと消えた。
勝った。いや、完勝ではない。むしろボロ負けだ。サッカーで例えるなら、5-1くらいの戦績だ。それでも、「ヤツ」を相手に1点のシュートを決められたことに意味がある。ただそれだけでも、十分に価値がある。
先ほどから渦巻いていた敗北感の一部が達成感へと昇華しようとしていたその時だった。
「ヤツ」は茶碗からおもむろに米を掬い上げたかと思うと、
ヒレカツの皿に米をぶちまけ、
余ったソースを塗りたくり、
そして口に放り込んだ。
いやコっっっっっっっっっっっっっっス!!!!!!!!
ああ、負けた。
負けた。
完敗だ。
何がコスパだ。何が松のヤーだ。
俺は、カロリーでも、コスさでも、負けてしまった。
「松のヤー」は、米を平らげると、そそくさと店を出た。
カウンターに残されたのは、カスみたいなロースカツの切れ端と、カスみたいな自分だけだった。
オウム真理教所属の軍用ヘリとその余生
立てばキモオタ座れば陰キャ歩く姿はPornHubでおなじみの代々木上原亜衣です。
この記事は『東京大学航空宇宙工学科/専攻 Advent Calendar 2019 - Adventar』の一部として用意しました。B3三連荘の最後を務めさせていただきます。
とはいえ、学科では立てば麻雀座れば荒野歩く姿はCoDでおなじみの北綾瀬はるか。意識も成績も低空を舞い地面効果でかろうじて浮いているような人間が、航空工学にまつわるサムシングを書いたとて、こないだ講師に投げつけたクズのカスのゴミカスみたいなクオリティの劣・設計計算書みたいになるのが目に見えています。
そこで、趣味に航空要素をむりやり取り入れ、「オウム真理教の軍用ヘリ」のお話をします。
オウム真理教とは
知らない方はいないと思いますが一応説明します。
オウム真理教とは、かつて日本に存在したカルト宗教団体・テロ組織です。東京の地下鉄にサリンを散布し数百人の死傷者を出した「地下鉄サリン事件」や、殺人の隠語「ポア」、尊師マーチなどで有名です。
本拠地は山梨県上九一色村で、「サティアン」と呼ばれるプレハブの施設内で、出家信者らが日夜修行に励んでいました。
一連の事件で教祖の麻原彰晃以下13名が死刑判決を受け、昨年7月に執行されています。
東大関連では、死刑判決を受けた東大理物OBの豊田亨や、1992年駒場祭で駒祭委員が麻原彰晃の講演会を強制終了させた事件が有名でしょう。
オウムがヘリを?
さて、前述の通り、オウムの兵器と言えばサリンといったイメージがつきがちです。しかし、実はオウム真理教はサリンだけでなく、自動小銃や軍用ヘリといった一般兵器も所持し、使用を企んでいました。
ウィキペディアのMi-17 (航空機) - Wikipediaの「運用国」項をご覧ください。ここには、Mi-17を配備したことのある国と、その運用主体が挙げられています。
「アメリカ合衆国 空軍特殊作戦コマンド」「ベトナム 人民空軍」などの羅列の中で異彩を放つ「日本 オウム真理教」の文字。
なぜオウムは軍用ヘリを所持するに至ったのでしょうか。まずはオウムがいかにして過激化していったのか、その根源から見ていきましょう。
オウム真理教の教義:ヴァジラヤーナ
オウム真理教では、修行に複数の種類を設けています。
個人の解脱を完成させる全ての基本となる「ヒナヤーナ(小乗)」をはじめ、「マハーヤーナ(大乗)」「タントラヤーナ(秘密真言乗)」「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」(「タントラ・ヴァジラヤーナ」とひとくくりにされることも)の四つがありました。
このうち、オウムの過激化の根源とも言える思想が「ヴァジラヤーナ」です。
人間の魂がもっともっとけがれ、そして第四期、破壊の直前になると、タントラヤーナの修行においても救済できない、そういう魂の世界が人間界に形成されます。
ここで登場してくるのが、ヴァジラヤーナ、つまりフォース、力を使って、武力を使っての破壊です。
麻原彰晃 90年3月、富士山総本部道場にて
上記の演説からお察しの通り、ヴァジラヤーナは非常に過激な思想で、一般的な仏教の教えから大きく乖離しています。その教義が端的かつ顕著に表れている戒律「五仏の教え」の要約を示します。
特に前三つは一般仏教(オウム的にはヒナヤーナ)の不偸盗戒、不殺生戒、不邪淫戒と矛盾するものですが、オウム真理教では「修行者が救済のために行うのでセーフ」という理論で納得させていました。
アクショーブヤの法則、アモーガシッディの法則より、オウムが殺人の正当化に用いた論理が導かれます。
「現代人は常にカルマを積み続けている存在なので、すぐに殺してあげることで、本来転生するはずだった界よりも高い世界へ転生させられる」というものです。
後半の「魂を高い世界へ転生させる」行為はポアと呼ばれていましたが、上記の理屈が要因で殺人の隠語として用いられるようになりました。もちろん、ポアは善行とみなされるため、ヴァジラヤーナの教義上では殺人はむしろ推奨される行為となっていました。
さらに、オウムにおいて信者が麻原に異を唱えることはご法度でした。なぜならば、最上のグルの言葉に誤りはないため、もし尊師と信徒の意見が対立したならば、間違っているのは後者であるからです。
麻原と同じように考え、行動する『クローン』化が求められた。理不尽なことでも従わないと『弟子に問題がある』とされた。
この教義のしみついた信者は、麻原に命令されたことならば、どんなことであろうと「グルが言っているのだから正しいに違いない」と考えるようになります。もちろん、それが殺人や窃盗などの非合法的な行為であってもです。
出家信者に至っては、サティアン(教団施設)内で情報から遮断された生活を送っており、マインドコントロール状態にあったことと考えられます。
以上の背景により、麻原の指示に反することなく、信者を非合法活動に従事させることのできる環境が構築されていました。
武装化の始まり
さて、武装化が開始されたのは、1990年からでした。
当時は「サンデー毎日」などの週刊誌にオウムを痛烈に批判する内容の記事が掲載され、一部メディアからの風当たりが強くなりはじめていました。さらに、90年衆院選に出馬した真理党候補者(麻原含む)が一人残らず落選。「オウムが国家権力やマスコミから迫害を受けている」との被害妄想を増長させるには十分でした。
さて、このように大きな権力からの攻撃を受けた(と感じた)ときの麻原の反応は、以下のようなものでした。
オウムは反社会、反国家である。どぶ川のなかで美しく咲く蓮華のようにあり続けるためには、反社会でなければならない。よって、国家、警察、マスコミこれすべてこれからも敵にまわってくる。
麻原彰晃 1990
国家権力を返り討ちにしようとしたのです。
麻原は自分を『弾圧されるが、戦って勝つキリスト』のようなものだと思いこんでいたようです。弾圧を受けた(と感じた)時に、大きく反発することで、キリストたる自分の存在意義を実現しようとしていたのではないかと推測されています。結果的に、麻原の思想は大きな攻撃性を持つようになりました。(注:ここの段落全部上祐の受け売りなんで信憑性はアレです)
さらに、教団は89年にはすでに坂本事件(赤子含む一家皆殺しという壮絶なものです)を犯しています。現場からオウム信者以外入手できない信者バッジが見つかるなどしましたが、警察がありえないほど無能であったため迷宮入りしました。ここから「人を殺してもなんとか隠蔽できる」と学習した麻原が、非合法活動に対する心理的ハードルを下げたことは容易に想像できます。
かくして、麻原は『国家権力が教団をつぶそうとしている、やらなければやられる』という旨の教えを広め始め、教団の武装化が進められることになりました。
ロシアへの進出
オウム真理教が武装化を始めてからわりとすぐの1991年、八月革命が起こりソビエトが崩壊しました。自らが信奉していた共産主義の瓦解を目の当たりにしたロシアの民衆。彼らは、共産主義に代わる心のよりどころとなる思想、すなわち宗教を追い求め始めました。
この機をオウムは見逃さず、1992年9月にオウム真理教モスクワ支部を設立しました。布教は大成功し、ロシアの信者数は日本をも上回りました。
ロシアのオウムの事件では、01年に信者ドミトリー・シガチョフらが起こしたテロ未遂事件が有名です。これは、逮捕された麻原の奪還を目的として、東京・青森・沖縄などで爆弾テロを起こすという計画でした。最近では、18年にヴォルゴグラードでロシアの教団幹部が逮捕されています。
さて、当時のロシアは汚職が横行しており、政治家に賄賂を渡せばだいたいのことはできる状況だったようです。動乱後の世の中、特に兵器や武器の融通など容易なことだったと思われます。
そんな折、ロボフという政治家が露日大学設立の援助金30億円を求めて来日しました。当時のエリツィン政権には金がなかったのです。しかし、日本の政財界人は振り向きもしませんでした。
ところが、ある人物から500万ドルの援助の申し出がありました。その人物こそ、麻原彰晃でした。
ロボフはオウムに対し最大限の便宜を図ることを約束しました。ロボフの伝手で、麻原は、衛星ラジオ局の開設や、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領などの大物との会談を成し遂げています。(実は先述のオウムモスクワ支部の開設もロボフの便宜によるところが大きいです。)
このような経緯で、オウムは、ロシアに活動拠点・後ろ盾・武器取得ルートを確保することができたのです。
空中散布
1993年8月、土谷元死刑囚(クシティガルバ)がサリンの生成に成功しました。
サリンが完成したとはいえ、どのようにして散布するかが問題で、教団は試行錯誤を重ねていました。事実、サリンを用いた事件のうち、最初の三件は散布方法のエラーにより失敗に終わっています。
さらに、当時サリンの大量生産計画も開始されました。サリン生成プラントが完成すれば、一日当たり2t、最大で合計70tもの量のサリンが合成されることになっていました。
これだけの量のサリンを用いて、国家に打撃を与える散布を行うにはどうしたらよいか。
すなわち、空中散布です。
UAVを用いる方法が考案され、「ヘラクレス号」(ここうろ覚え)という農薬散布用ラジコンヘリが二機導入されましたが、双方とも試運転で事故って壊れてしまいました。
同時に、有人ヘリを利用する方法も進められていました。ロシアでの兵器取得を担当していた早川元死刑囚(ティローパ)は、93年12月、軍用ヘリ「Mi-17」の購入契約を取り付けました。これが本稿のメインテーマである、オウム真理教の軍用ヘリです。
4K-15214
Mi-17は、4tのペイロードを持つソ連製輸送用ヘリコプターです。改造により機関砲やミサイルポッド、爆弾を搭載する能力を持たせることも可能です。
オウムが購入したMi-17は、タタールスタン製で、アゼルバイジャンにて使用されていた中古機です。機体識別番号「4K-15214」の上二桁4Kはアゼルバイジャンの符合で、この事実を裏付けています。
ヘリの取得には、オウムの献金を受けたハズブラートフ最高会議議長が関与していたと見られています。ハズブラートフ議長はアゼルバイジャン近くのチェチェンの出身で、何らかのコネクションがあったと推察されています。(追記:この辺ソースが怪しいので話半分でお願いします)
ウィーンを拠点とするマフィアを介し、アゼルバイジャン→スロバキア→オーストリア→ロッテルダム→横浜→上九一色オウム施設というルートで輸送され、93年6月に教団敷地内に到着しました。
ヘリコプターの免許を所持していた信者、岐部(マハーカッサパ)が、敷地内でホバリング試験を行ったことが証言されています。飛行した記録は存在していません。そもそも必要な手続きを航空局に出していなかったようなので、飛べば航空法違反です。しかし、捜査に当たっていた警察としては、十分な脅威であったことに違いはありません。
11月戦争計画
かくして教団はサリンの空中散布能力を得ました。教団武装化の先頭に立っていた早川元死刑囚(ティローパ)は、武装化計画を記した「早川ノート」を有していました。早川ノートの最終項には、「’95 11月→戦争」と記されています。これこそが、国家転覆・乗っ取りを最終目標とした「11月戦争計画」です。
荒唐無稽極まりないですが、少なくとも1は実行する手立てがあったわけですから、たわごとではありません。
しかしながら、この計画はとん挫します。1995年の正月、上九一色村のオウム施設近くの土壌から、サリン副生成物が検出されたことがスクープされました。1994年9月に起こした松本サリン事件の捜査が続く中での話でした。紙面を見た麻原は相当に怒り狂ったと伝えられています。証拠隠滅のため、オウムはサリンの大量生産を諦めざるを得ませんでした。
さらに、3月上旬には、信者が殺人事件に関与したことの物的証拠が警察に掴まれました。オウムはついに追い詰められました。
近く強制捜査が行われることを察知した麻原は、捜査を阻止するため、都心で大混乱を起こすことを計画しました。かくして1995年3月20日、営団地下鉄の車内でサリンが散布されました。
富士山麓オウム泣く
サリン散布はかえって逆効果で、地下鉄サリン事件から二日後、山梨県のサティアン群が強制捜査を受けます。
オウムが如何に抵抗してくるかは未知数でした。追い詰められたカルトがどのような反応を示すのか、当時最も記憶に新しかったのは、ブランチ・ダビディアン教団事件(1993、アメリカ)でしょう。戦車や攻撃ヘリを投入したFBIの強制捜査に対して、カルト教団が自爆をもって対抗した事件です。
オウムが持っていると推定されるあらゆる兵器に対して警戒がなされました。サリン、VX、生物兵器、AK小銃、…その中にはもちろん、オウムヘリも含まれていました。
サリンを搭載したヘリが離陸するといった最悪の場合に備え、御殿場にいた陸自の第1高射特科大隊が即応体制で展開していました。また、オウムヘリ撃墜のためにAH-1攻撃ヘリが待機していたとの噂もあります(ソース忘れたので教えてください)。
しかし幸い、オウム信者は無抵抗でした。犠牲者が出ることなく強制捜査は進み、1995年5月には麻原が逮捕され、事態は一応の収束を見せました。強制捜査の最中、オウムヘリはすぐに警察に接収されたと言われています。
結局、オウムヘリは日本で一度も飛ぶことはありませんでした。
オウムヘリのその後
強制捜査後、オウムヘリはしばらく富士宮に安置されていたようです。下記のブログには、1998年4月のオウムヘリの姿をとらえた写真が掲載されています。
その後、オウムヘリは再び海外へ飛びました。
こちらのサイトには、オウムヘリ4K-15214の遍歴が示されています。かつてCCCP152のレジを保有していた(別サイトによるとチェコスロバキア籍)他、2001年までにはJ2-MAWのレジでジブチ空軍の所属になっていたことが分かります。
История ВВС Джибутиによると、90年代に「文字通り「ワンコインで」購入」されたとの記述があります。しかし、日本から直接購入したかは定かではありません。中間に他の所有者がいた可能性も考えられます。
オウム時代は真っ白だった機体は砂漠迷彩に衣替えし、横に何か(おそらく武器ポッド?)を搭載できるように改造がなされています。
ジブチは海賊で悪名高いアデン湾に面しており、対海賊戦に投入されたのではないかと想像されます。
サイクロン被災地域の救難活動
オウムヘリの最新の活躍は、2018年5月にアフリカの角を襲ったサイクロン「サガル」の救難活動です。
このサイクロンは特にソマリランド西部のアウダル州に甚大な被害を及ぼし、50名の死者を出す惨事になっています。
ジブチはソマリランドにヘリを派遣し、被害状況の観測と被災者の避難支援を行いました。現在ソマリアはソマリランド・プントランド・ソマリア連邦共和国・アルシャハーブ・その他もろもろ(連邦除きすべて未承認)に分裂し内戦中のため、各政権ネット上でのプロパガンダ戦略が盛んなようです。ジブチ政府に対し謝辞を述べるソマリランド副大統領のツイートに当該ヘリの写真が掲載されているのですが、このレジがオウムヘリと一致しています。
つい先日の2019年11月21日、ジブチで豪雨災害がありました。1日で2年分の雨が降ったと報じられ、9人が死亡、ジブチ政府は非常事態宣言を出しています。インターネット上の情報だけでは確信を持てませんが、オウムヘリはこの災害でも活躍したものと見られます。
終わりに&参考文献
地下鉄サリン事件からまもなく25年が経とうとしています。この記事を読んでいる皆さんは、その当時生まれていないか、あるいは生まれていたとしても物心つかぬ幼児であったかと思われます。オウム関連事件の記憶は確実に社会から薄れてきています。風化を防ぐには、我々の世代が、オウムとは、サリン事件とは何だったのかを知らなければなりません。当記事がオウム真理教について知るきっかけとなれば幸いです。
それはそれとして、普段はこのブログで習近平による電磁波攻撃被害を告発したり天皇家の一員として集団的自衛権を擁護したりしています。よかったら見てってね
参考文献
[1]ヴァジラヤーナ教学システム,麻原彰晃
[2]未解決事件 オウム真理教秘録,NHKスペシャル取材班
[3]ヴァジラヤーナ・サッチャ,オウム出版
[4]サリン事件 科学者の目でテロの真相に迫る,アンソニー・トゥ
[5]オウム真理教事件とは何だったのか?麻原彰晃の正体と封印された闇社会 ,一橋文哉
[6]オウム『11月戦争』の恐怖,岩上安身,宝島30 95年12月号
[7]その他各種判決文などもろもろ