本郷キャンパス歴史小話 富士信仰の聖地と戊辰戦争の戦場

DAMチャンネルをご覧の皆様こんにちは、代々木上原亜衣です。この度東京大学航空宇宙工学科/専攻 Advent Calendar 2020 - Adventarの記事をリリースさせていただくことになりました。

 

昨年は航空にこじつけてオウム真理教のヘリの話を書きましたが、今年は何を書きましょうか。そういえば今年は航空学科設立100周年の記念すべき年です。一次中断された時期もありますが、めでたい話です。

航空宇宙工学科百年史を書こうかとも思いましたが、たぶん放っておいても他の人なり団体なりが勝手に書くでしょう。今回は「歴史」をテーマにして、本郷キャンパスに東大が成立する以前の歴史を紹介……しようと思ったのですが、APEXとYouTubeで忙しかったので詳細な通史を書けるほど資料を集める時間がありませんでした。

そのため、本記事は本郷キャンパスにまつわる歴史小話を二本立てでお送りします。

 

一つ目は安土桃山から昭和にかけて医学部二号館前に存在していた富士信仰の聖地、椿山についてです。椿山は、最古級の富士講組織を有する駒込富士神社の起源とされる信仰の場でした。

 

二つ目は戊辰戦争において旧幕府勢力を江戸から一掃した戦い、上野戦争の戦場としての本郷キャンパスについてです。現在の上野公園が主戦場となった上野戦争では、不忍池を挟んで反対側の高台に位置する本郷キャンパスが砲台陣地として使用されました。

 

 

序章 通史

個々のこぼれ話を見ていく前に、まず本郷キャンパスが東大の敷地になるまでの大まかな歴史の流れを通して見ていきましょう。

縄文

縄文海進(縄文時代に起きた気候の温暖化による海面上昇)に伴い、今の根津・不忍池方面と春日・水道橋方面は海に沈み、本郷台地は半島になったと考えられています。浅野キャンパスから貝塚が出土しており、ここが海岸に近い集落であったことを裏付けています。

弥生

縄文海進が終わり海が引くと、根津方面は稲作に適した沖積地となりました。現在の本郷キャンパス一帯には農村が成立しました。

この時期使われていた薄型土器が1884年に弥生で初めて発見され、発見地から「弥生式土器」と命名されました。さらに、この土器を使っていた時代も「弥生時代」と呼ぶようになりました。(なお、発見地は弥生一丁目の弥生キャンパスではなく弥生二丁目の浅野キャンパスです)

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初めて見つかった弥生土器 東大総合研究博物館



古墳

本郷キャンパス内に椿山古墳が存在するとされていますが、本当に古墳かどうかは疑問視されています。ここは後程深く触れていきたいと思います。

中世

平安中期の文書・倭名類聚抄に「豊島郡湯島郷」なる集落の存在が記録されています。

この湯島郷の中心地が湯島本郷と呼ばれるようになり、室町~戦国の間に湯島が取れてただの本郷になったと考えられています。その後、湯島と本郷は別々の集落として発展し、現在に至ります。

また、源義経の家来の一人・片岡八郎が弥生で没したという伝説があり、彼を祀る神社が今の農学部一号館北東端あたりに存在していました。

江戸

江戸時代に入ると、本郷キャンパス一帯は大名の屋敷地として利用されました。参勤交代の際に大名が滞在し、藩政などを取り仕切る場所として使われました。

本郷キャンパスは前田家の拝領地となり、加賀藩・富山藩・大聖寺藩(すべて前田家)の屋敷が構えられました。いまや東大のシンボルとして有名な赤門は、加賀藩上屋敷の遺構です。あと調べている途中分かったんですが、2Aの金曜日に監禁されていた工8地下のあの教室と加賀藩の牢屋のあった場所がだいたい一致してて笑いました。

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図書館前広場では、加賀藩邸の遺構が床材としてそのままの位置で保存されている

弥生・浅野キャンパスは水戸藩駒込邸として使われていました。

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現在の本郷キャンパスと江戸時代の土地利用の比較



明治以降

明治四年、加賀とその支藩の広大な屋敷地は文部省に接収され、跡地には東京医学校が移転しました。その後明治10年東京開成学校と合併、東京大学が創設されました。

大正末に本郷南東の前田侯爵家と駒場の土地を交換、昭和初期に弥生の一高と駒場農学部敷地を交換、戦後に浅野侯爵家の土地を購入し、現在の本郷(地区)キャンパスの領域がだいたい完成しました。

関東大震災や太平洋戦争で罹災しつつ、戦間期や高度成長期には施設を拡張し、現在の姿に至ります。

 

第一章 富士信仰の聖地・本郷キャンパス

住居表示実施前、本郷キャンパスの住所は「本郷7丁目3-1」ではなく「本富士町1」でした。

この本富士というのは「もともと富士権現があったところ」の意です。本富士町の富士権現は江戸の初期に駒込に移され、現在も駒込富士神社として祀られています。

実は、この富士権現の祀られていた丘が1964年まで現在の赤門総合研究棟のあたりに残っていました。これは椿山あるいは富士山と呼ばれていた丘で、先述の椿山古墳と同一のものです。富士山と書くと3776メートルのガチ富士と紛らわしいので、本稿では特に何もない限り椿山で呼称を統一します。

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本郷區史(1937)に掲載されている椿山



この章では、椿山の歴史を辿ります。

1-1 富士信仰とは何か

まず富士信仰について軽く説明します。

1-1-1 富士信仰浅間信仰

まあ読んで字のごとくなんですが、富士信仰とは富士の山神を信仰することを指します。山岳信仰の一種ですね。

富士信仰の一つである浅間信仰の場合、富士の山神は浅間大神といい、日本神話のコノハナサクヤヒメと同一視されています。各地に存在する浅間神社はこの浅間大神を祀る富士信仰の神社です。駒込富士神社もこの系統です。

富士山山開きの日である旧暦六月朔日には縁日が開かれます。

1-1-2 富士講

富士講という、富士信仰の信者互助組織も存在していました。

講とは仲間内で費用をためて代表者に遠隔地への参拝をさせる共同体のことで、富士講以外にも香川の金刀比羅宮に参拝する金毘羅講などが存在していました。富士講における参拝とはもちろん富士登山を指します。

駒込富士神社には最古級の富士講組織が存在しています。

富士講は江戸時代に大いに流行し、全盛期には「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講、江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人」とうたわれました。

明治以降(特に戦後)、富士登山がレジャー化するに伴って富士講は衰退し、現在は十数講を残すのみとなっています。

1-1-3 富士塚

富士信仰の特筆すべき風習に「富士塚」があります。小さな山を築いて頂上に祠を建て、富士山の代わりとして崇拝する風習です。

人工の山だけでなく、自然にできた丘や古墳を利用することもありました。多くの場合、富士塚の頂上からはガチ富士が見えるようになっていました。

本郷の例では、椿山が富士塚として扱われたと捉えることができるでしょう。

東大の近辺では、同じ山岳信仰の社でもある白山神社で現存する富士塚を見ることができます。

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歌川広重「名所江戸百景」に描かれた目黒の富士塚 昭和期に取り壊され現存しない
1-1-4 余談

特に富士信仰とは関わりのない宗教もなぜか富士山麓に引き寄せられがちです。

古くは日蓮宗大石寺が建てられました。大石寺への会員参拝の便宜をはかるため、創価学会新富士駅の設置の際に多額の寄付をしたという逸話があります。

最近ではオウム真理教サティアン法の華三法行の本部が存在していました。

 

1-2 本郷富士権現の起源

本郷に富士権現が祀られ始めたのはいつからなのでしょうか。

古文書を見ていきましょう。

 

武蔵国の地誌・新編武蔵風土記稿(1810~1830)では、駒込富士神社の項に以下のことが書かれています。

寛文(1661~1673)の頃記せる縁起に、天正元年(1573)五月木村万右衛門牛久保隼人と云民、浅間の霊夢によりて本郷のうちにありし古塚より行基手刻の牛王板及び剣一振幣帛等を得たり。故に其所に一社を造立し富士浅間を勧請す。~

天正元年(1573)に富士権現が祀られたこと、椿山はその時点で「古塚」であったことが読み取れます。

 

寛文期の他の記録も見てみます。寛文2年(1662年)の「江戸名所記」は、駒込富士神社の項で次のように述べています。

駒込村富士社、このやしろは百年ばかりそのかみは本郷にあり、かの所にちいさき山あり、山の上に大なる木あり、その木のもとに六月朔日大雪ふりつもる。~~木のもとに小社をつくり時ならぬ大雪のふりける故を以て、富士権現をくわんじゃう申しけり。

1662年から見た1573年は「百年ばかりそのかみ」と言えましょう。由来が霊夢か雪かの差はありますが、本郷富士権現の始まりは1573年と結論付けられそうです。

 

いや、少し待った。文政8年(1825)に滝沢馬琴らが記した「兎園小説」では異説が述べられています。

江戸本郷加州御屋敷氷室の場所は、慶長八年(1603)六月朔日雪ふりける所也。其雪富士の形につもりたるゆゑに、其所へ浅間の宮を造立し、毎年六月朔日まつりをなす。

六月朔日(富士山山開きの日)の雪の縁起こそ「江戸名所記」と共通していますが、その日付は1603年としており、新編武蔵風土記稿の1573年と一致していません。

 

1573年説と1603年説、どちらが正しいのでしょうか。

椿山を記した最古の記録である慶長見聞集(1615)を見てみましょう。1603年からわずか12年しか経っておらず、年号すら変わっていません。もし1603年説が正しいのであれば、詳細な縁起が書かれているはずです。

神田山のきん所本郷といふ在所に、昔より小塚の上にほこら一つありて、富士浅間立せ給ふといへども、~

1615年からみて「昔より」とのことですので、1573年説が有力と言えるでしょう。

また「兎園小説」は、兎園会という、文人が珍談奇談を披露する会で出た話を記録したものです。人志松本のすべらない話の書き起こしみたいなもんです。正式な歴史書である風土記稿などと比べると、その信憑性には少し疑問が残ります。

 

富士塚を新たに造成したという話は全てにおいて無かったので、椿山は16世紀以前に作られたか、あるいは自然地形であることが分かります。

 

1-3 江戸期の信仰

本郷富士権現は建立よりしばらく本郷の民衆の信仰を集めていました。

元和二、三年(1616~17)、現在の本郷キャンパスは前田家の拝領地となります。その中に椿山も含まれていました。

大名の土地になった後もしばらくは信者が出入りしていましたが、警備上よろしくなかったらしく、寛永六年(1629)駒込遷座しました。

その後少なくとも17世紀後半までは、六月一日の例祭のときのみ本郷の富士社跡地が民衆に開かれるようになりました。現在でも、旧暦六月一日にあたる七月一日は駒込富士神社で祭りが催されています。

このころ椿山はもっぱら富士山と呼ばれており、江戸期の加賀藩資料にも富士山として記載されています。19世紀前半ごろに加賀藩上屋敷を描いた絵図を見てみると、「富士山」「富士権現旧地」として赤門横の椿山が描かれています。

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加賀藩上屋敷図 矢印が椿山で、「富士権現旧地」と書かれている その左下は赤門

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天保13年(1842)の上屋敷絵図 「富士山」の文字が見える

余談ですが、「一富士二鷹三茄子」の一富士とは駒込富士神社のことだと言われています。その駒込富士神社は390年前まで本郷にあったわけですから、初夢で本郷の夢を見た場合は「一富士」カウントになるかもしれません。知らんけど。

 

1-4 信仰の衰退

明治四年(1871)、加賀藩敷地は文部省用地となります。その中に椿山も含まれていました。明治五年(1872)には、先述の通り駒込富士神社の旧地であることから一帯に「本富士町」の名が付きます。

このころの加賀藩屋敷地は安政の大地震明治元年の火災で荒廃していました。管理者であった前田家の手を離れた上、富士講の衰退が始まったことも相まっているのか、椿山は従来の「富士山」の名では呼ばれなくなり、「椿山」として知られていきます。

東大が成立した頃には既に「椿山」の名称が一般的となっていたようです。

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五千分一東京図測量原図(1877) 赤門前の丘に「椿」とある

一方、富士権現への信仰が完全に消失したわけではありませんでした。

現在の本郷キャンパス南西部は前田侯爵家の土地となりましたが、これはちょうど椿山の南隣に当たります。五千分一東京図を見ると、椿山から塀一つ隔てた南に小さな建物があるのが見えます。これは椿山の富士を祀るために前田家が建立した祠なのです。

 

1-5 古墳?

東京大学の発展(とそれに伴う考古学の発展)によって、「椿山は古墳なのではないか」という疑惑がかかります。

1885年、椿山の発掘調査が行われました。この前年に弥生土器の発見を成し遂げた有坂鉊蔵や坪井正五郎らのエースが主導する発掘調査で、大いに期待されていました。

しかし予想を裏切り、出土したのは富士権現関連の切り石が二、三個ほどのみで、古墳時代のものは何も出土しませんでした。のちに有坂は「つひこゝからは何も出ませんでした」と当時を回想しています。

物証が無いにも関わらず、その後も椿山は古墳と見なされました。実は冒頭で紹介した椿山の写真は、本郷區史(1937)内で「本富士町帝国大学構内古墳」として紹介されていたものです。

椿山古墳は現在でも文京区の遺跡として登録されています。しかし先述の通り既に工事で破壊されて現存しない上、なんと地図上で誤った位置に登録されています。このため、2008年の学術交流研究棟建設の際、文化財保護法に基づき不必要な発掘調査をせざるを得ない事態が発生しました。文の京のくせに文化財保護ガバガバじゃねえか

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経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告(2008)より引用 担当者の怒りが伺える文章でした

1-6 椿山の消滅

明治以来本郷キャンパスの憩いの地(だったかは知らんけど)として親しまれてきた椿山にも、1960年代のキャンパス拡張期、ついに開発の手が入ります。

1964年椿山は破壊され、1965年跡地に赤門総合研究棟が建設されます。同年住居表示が実施され、本郷富士権現を由来とする町名である本富士町は本郷七丁目に改められました。

2020年現在、キャンパス内に椿山の痕跡を見ることができるものは存在しません。

 

1-7 まとめ

いかがでしたか?(決まり文句)

1573年富士権現が勧請され聖地として崇められた富士山は、江戸期に繁盛したものの、明治にはその信仰を失って椿山と名を変え、1965年前後にはその本体である椿山と名を残した「本富士町」の双方を失い、歴史から消えました。

現在では椿山の面影を見ることはかないませんが、実は龍岡門の西側に小さな富士社が残っているのを見ることができます。この社は1-4節で紹介した前田家の祠が元となっており、大正の土地交換で前田家が駒場へ越した際に地元町内会に託されたものです。

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本郷に今も残る富士浅間神社

富士信仰華やかなりし頃を思い浮かべながら本郷を歩くと、慣れた道もまた違って見えてくるかもしれません。

 

 

第二章 戊辰戦争の戦場・本郷キャンパス

明治時代の始まる四か月前、上野広小路千駄木、上野公園は火に包まれました。戊辰戦争の重大局面の一つ、上野戦争です。

上野戦争とは、現在の上野公園に立てこもった旧幕府軍を駆逐し、江戸から佐幕勢力を掃討することを目的に新政府軍が仕掛けた戦闘です。

上野の近くに幕府軍を砲撃するのに適した高台が存在していました。これこそ、不忍池を挟んだ反対側に位置する前田家屋敷地、後の本郷キャンパスです。

 

2-1 背景

日本史で詳しくやったと思うので詳しくは省きますが、1868年、日本は新政府軍と旧幕府軍の二つに分かれ久方ぶりの内戦状態に陥ります(戊辰戦争)。

旧幕府軍は緒戦の鳥羽・伏見の戦いに敗北。当時大坂城にいた徳川慶喜は江戸に逃亡し、寛永寺(現在の上野公園)で謹慎します。このとき、慶喜の警護などを目的とした旧幕府側武装集団「彰義隊」が結成され、寛永寺を拠点とします。

江戸城無血開城により慶喜が水戸へと移動した後も、彰義隊は徳川家位牌の警護を理由に寛永寺に留まり続け、新政府軍兵士の殺害など敵対的態度を取りました。新政府は懐柔を試みましたが、ついに彰義隊の討伐を決定しました。

 

2-2 大村益次郎の作戦

この作戦を指揮したのは長州の大村益次郎というめちゃくちゃデコのでかい軍師です。この節では彼の立てた作戦を紹介します。

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大村益次郎肖像画 デコでかすぎやろ

敵の立てこもる場所は上野の山の寛永寺です。上野公園に行ったことのある方はわかるかと思いますが、寛永寺は現在の上野駅東口側と不忍池に挟まれた半島状の高台に位置しています。

さらに徳川家の菩提寺である寛永寺には歴代将軍の墓があり、それらを守護するために比較的強固な防衛設備が存在していました。

もう一つ付け加えるならば、当時の不忍池には流入する藍染川(ほぼ現在の文京・台東区境に相当)と、流出する忍川が寛永寺を取り囲むように流れていました。

つまり、寛永寺は要塞として機能していたのです。

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寛永寺地図

これを殲滅するために、大村はまず交通を遮断しました。水道橋・和泉橋・昌平橋神田川を、両国橋・吾妻橋千住大橋隅田川を封鎖。さらに陸路では、本郷追分(現在の農学部正門前。追分寮の名前の由来でもある)で中山道岩槻街道を同時に封鎖しました。

実働部隊の戦線は大きく分けて二つ。主戦線が大手門にあたる黒門(現在の京成上野駅)前で、主に薩摩藩が担当していました。参謀はあの西郷隆盛です。

もう一つが団子坂~藍染川~谷中門(現在の千駄木駅東京芸大付近)で、長州藩がメインの部隊でした。こちらは最新鋭兵器のスナイドル銃を装備していました。

これに加え、前田家屋敷地(現在の本郷キャンパス)に佐賀藩の砲兵、水戸藩駒込邸(現在の弥生キャンパス)に岡山藩・津藩の砲兵を配備しました。現在の東大病院のあたりには佐賀の虎の子の最新大砲・アームストロング砲が配備されていました。

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寛永寺攻略図 縮尺ガバガバにつき注意

地図を見ていただけると、北東側の鶯谷方面に兵が割かれていないことがわかるかと思います。大村はあえて彰義隊を完全には包囲せず退路を残しました。彰義隊が猫嚙む窮鼠と化すことを避けたのではないかと思われます。

 

2-3 午前:戦局の膠着

1868年5月15日未明、政府軍が寛永寺への進軍を開始します。

午前七時ごろ、黒門前戦線では忍川を挟んで両軍が激突。戦端が開かれます。

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忍川を挟んで対峙する旧幕府軍(←)と新政府軍(→) 左に見える柵が黒門

忍川を越すことには成功しましたが、新政府軍は山王台からの砲撃に晒され、上野広小路あたりで一進一退の苦戦を強いられます。

その頃、谷中門戦線では藍染川を挟んで銃撃戦が発生。長州藩軍は最新式のスナイドル銃で対抗を試みますが、最新すぎて操作方法が分からず撃てないという事態に陥りました。いやそんなことある???旧式銃を持つ他藩軍に戦線を任せ、長州軍は一時離脱します。

一方本郷の砲台陣地では、着弾点の調整に手間取って寛永寺境内まで砲撃を届かせることができず、せっかくのアームストロング砲弾もすべて不忍池に吸われてしまいました。

 

2-4 正午:真価を発揮する二つの新兵器

正午ごろ、ついに本郷からの砲撃が不忍池を越えて上野山中に着弾します。

中堂(東博前噴水のあたり)などが炎上し、彰義隊の一部部隊が脱走。山王台の旧幕府軍砲台陣地も被弾し、新政府軍の奇襲により占拠されました。

高所からの彰義隊の砲撃が止んだため戦況は好転し、午後二時ごろ新政府軍は黒門を突破し寛永寺内になだれ込みます。

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寛永寺になだれ込む新政府軍 先ほど左に見えていた黒門が右端にあり、錦の御旗がはためいている

一方で谷中門戦線を離脱した長州軍が向かったのは加賀藩邸育徳院心字池、現在の三四郎池でした。ここにはスナイドル銃の扱いに慣れた新政府軍参謀が控えており、長州軍は銃の指南を受けます。

スナイドル銃を使いこなせるようになった長州軍の活躍により、新政府軍は藍染川を越え、一気に谷中門へ駆けあがりました。谷中門周辺には現在も古い寺が多く残っており、この時の弾痕を見ることができます。

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谷中一乗寺の門に残る弾痕

二つの戦線で戦果を挙げた二つの新兵器には、偶然にも後の本郷キャンパスが関わっていたのでした。

 

余談:上野の西郷隆盛

上野公園に犬を連れた西郷隆盛銅像が建っているのは周知のとおりです。

西郷像の位置は、上野戦争において彰義隊の砲台陣地に使われ、激選の末に西郷の薩摩軍が勝ち取った山王台にあたります。さらに西郷像の背後には彰義隊隊士の墓が鎮座しています。

 

 

2-5 午後:終結

黒門突破後、新政府軍は敵を各個撃破しつつ建物を放火し、本坊陥落後は掃討戦に移りました。防衛線を突破された彰義隊にもはや勝ち目はなく、午後五時ごろ戦闘は終結しました。

彰義隊残存兵は大村があえて開けた鶯谷方面の穴から抜けましたが、あらかじめ交通の要所を抑えていた新政府軍に捕縛されました。

上野戦争の勝利によって江戸以西は新政府軍の手中に収まりました。江戸が東京に改称されたのはこの二か月後、明治が始まったのは四か月後のことでした。

 

2-6 まとめ

なんか本郷キャンパスというより上野公園に主軸を置いちゃってますねこの章。

江戸城開城後も上野に立てこもっていた佐幕過激派テロ組織彰義隊を殲滅する戦いにおいて、本郷キャンパスは砲台および指令所として新政府軍の勝利に欠かせない陣地の役割を果たしました。

不忍池を眺めながら「ここにはアームストロング砲の弾が沈んでるかも」と思いを馳せてみたり、千駄木ミスドの窓から藍染川に突っ込む長州軍の姿を思い浮かべてみたりして楽しんでみるといいんじゃないかと思います。今朝そうしてきました。

 

 

参考文献

[1]本郷區史, 1937

[2]東京大学百年史, 1977

[3]史跡とならずに消えた名所―本郷の富士山, 松田陽, 2016

[4]新編武蔵風土記稿 巻之十九, 1810~1830

[5]経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告, 東京大学埋蔵文化財調査室, 2008

[6]戊辰戦争 (11・上野戦争), ring ripple, 2020

[7]図説・幕末 戊辰/西南戦争, 2006

その他いろいろあるけどメモって無かったので忘れました。研究者としてあるまじき怠慢